戦時中(主に日中戦争から太平洋戦争期)における裁判官の「公平性」と現在の観念との間には、制度的・構造的に極めて大きな開きがあります。
裁判官個人の良心や当事者を等しく扱うといった手続き上の形式においては共通する部分もありましたが、「何をもって公平(公正)とするか」の前提となる国家体制・法体系・人権意識が根本から異なっていたためです。
大きな隔たりを生んでいた主な要素は、以下の3点に集約されます。
1. 司法権の独立と「大日本帝国憲法」の構造
現在の日本国憲法では、裁判官は憲法と法律にのみ拘束され、完全に独立して職権を行います(第76条)。一方、戦前の明治憲法下では、司法権は「天皇ノ名ニ於テ」行使されていました(第57条)。
- 行政権(司法省)による人事権の掌握戦前は司法省(行政機関)が裁判官の昇進、転勤、給与などの人事権を握っていました。そのため、行政や軍の意向に反する判決を下せば、人事上の不利益を受ける構造が存在していました。
- 行政裁判・軍律裁判の除外国家権力(行政)の不法を裁く「行政裁判所」は司法裁判所から分離されており、軍人等を裁く軍律裁判(軍法会議)も独立していたため、一般の裁判所が権力の暴走をチェックできる範囲は極めて限定的でした。
2. 特別法令の制定と「国家目的」への是従
戦時体制が強まるにつれ、国家の安全や戦争遂行を最優先とする特別法令が次々と制定されました。
- 治安維持法などの存在国体(天皇制)の変革や私有財産制度の否定を罰する「治安維持法」や「国防保安法」などにより、個人の思想・信条の自由や表現の自由は極めて厳しく制限されました。
- 「法の解釈」の変容法解釈において、個人の権利擁護よりも「国家目的の達成(総力戦への協力)」が優先されました。司法廷において法文を適用する際、裁判官が形式的に公正を装っても、適用される法律自体が「国家批判や戦争反対を罪とする」ものであったため、現代の感覚から見れば公平とは言えない判決が量産される結果となりました。
3. 戦時特例法による裁判手続きの簡略化と厳罰化
太平洋戦争末期(1942〜1944年頃)になると、「戦時刑事特別法」などが強化され、裁判手続きそのものが簡略化・厳罰化されました。
- 三審制の制限特定の犯罪(治安維持法違反や国防保安法違反など)については三審制が制限され、控訴審を挟まずに判決が確定するような特例措置が取られました。
- 司法の自粛と挙国一致多くの裁判官自身も当時の国家主義的思想や治安維持の使命感にとらわれており、自ら「戦争遂行に害をなす者」を厳しく処罰することが国家のための「公道(公正)」であると信じて判決を下す傾向が強まりました。
例外的な職責の行使(行政権力への抵抗例)
ただし、戦時中の裁判官が全員ただちに権力の傀儡(かいらい)化していたわけではありません。
たとえば1942年(昭和17年)の翼賛選挙における選挙違反訴訟において、大審院(現在の最高裁に相当)の吉田久裁判長らは政府(東条英機内閣)側による大規模な選挙干渉を違法とし、選挙無効の判決を下した例(鹿児島2区の大隅選挙無効事件)など、行政権力に抵抗して司法権の独立や厳正な法適用を守ろうとした少数派の抵抗例も存在します。
まとめ
現在の「公平性」は、個人の基本的人権の尊重、法の支配、徹底した司法権の独立に基づき、個人の権利を国家権力から守ることを第一義とします。
対して戦時中の「公平性」は、国家秩序や天皇を中心とする国体の維持という大前提の「枠内」でしか機能せず、戦時体制が進むにつれて「国家の敵を罰すること」こそが裁判官の正義・公正であると読み替えられていきました。したがって、両者の概念そのものには決定的な開きが存在します。

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